自動車事故に遭った

あれは今から14年前のこと。
イモ子が新しく入学する学校の制服を学校まで取りにいかなくてはならず、
当時免許取りたての私の運転により、
助手席にイモ子が乗って自宅を出発した。
当時はシートベルトは任意だったが、
免許取立てだった私は注意深く、眉間にしわを寄せながら、
「シートベルトしめとってよ」
とイモ子に告げた。
素直にベルトを締めるイモ子。

当時大好きだった"Sing like talking"のアルバム、
"Enconter"を聴きながら、ノリノリでGO!

運転に緊張するので、
当時の私のハンドルを握る手の小指は、
ピンと立っていた。
(↑イモ子指摘)

学校までは片道20分ほどあろうか。

もうすぐ学校というところで、信号が赤になった。
ゆっくり停車する私。
先頭にはトラック、次に乗用車、軽バン、そして
私たちの乗ったSuzukiのジープ車。(←父の)

完全停車してフロントミラーでふと後ろを見ると、
大型トラックが猛スピードで近づいてきたように見えた。
これはもしや・・・・
と思っていたら、



ドーーーーーーーーーーーーーーーン


と、すごい衝撃が走り、
3回くらい大きく前の車にぶつかったような気がした。
ぶつかったとき、頭の中は真っ白だった。
死ぬときはあんな感じなのか?
イモ子の、

ギャーーーーーーーーーーーーー

という叫びが、衝撃の間続いた。


気がついたら、前の車が横向きになったりして、
将棋倒しの後みたいな状況になっていた。
うちの車のフロントガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、
ドアはひん曲がり、
後ろを見ると、窓のガラスが全部なくなっていた。



なもんで、風通しはよろしい。



そういうことじゃなくて。




後ろのトラックのドライバーは、
「ムヒヒヒヒ」
と、引きつった表情で意味不明の笑いを浮かべていた。




こえーよ。



おっさん、そうとう焦っていたんだろう。
そりゃそうだ。



パニックに陥っているのはオッサンだけではなく、
イモ子もそうだ。
私はかなり落ち着いていたと思う。
「なっちゃったもんはしょうがねぇや」
という感じですな。
とにかく、車を降りなくては。
でも運転席のドアが開かないので、
イモ子の助手席のドアから出た。


すぐさま警察が来て、
そして野次馬もたくさん集まってきた。
(あんな田舎なのに、どっから来たんだ?)


すると、パニクっているイモ子、
野次馬に向かって・・・・



なんみお〜んかっちゃ〜〜!
訳:なに見てるんだ?



と叫ぶ。
野次馬、かなり引いてたね。
私も引いたよ。


近くに役場があり、
当時は携帯電話なんてないので、
その役場の公衆電話でとりあえず親に電話するようにイモ子に頼んだ。
すごく勢いで走り去っていくイモ子の背中を見ながら、
私は警察のインタビュー質問に応じた。


走り去っていったイモ子。
役場の入り口のガラスのドアが開かないと焦ったらしく、
中にいる人々に向けて、ガラスをバンバン叩きながら、

「あけてぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええ

と叫んでいたという。
中の人たちはビックリした顔で見ていたらしいが、
ある人が中から、
すぐ横の自動ドアから
ウィーン
と涼しげに出てきたそうで、
ハッと我に帰って中に入ったらしい。

なかなかパニックが収まらないイモ子であった。



警察の事情聴取は比較的すぐに終わった。
「えっと、お母さんですか?」
といわれたときには、
「このポリスマン、どうやったらこの私がイモ子の母親にみえるんじゃ?」
と、大ハリセンで叩きたくなったが、とりあえず我慢。
当時私はピチピチの20歳そこそこだったんだけどね。
フン。

うちの両親と祖父母が勢ぞろいで、現場に駆けつけてきた。
事故に遭った現場と車両を見て、ゾッとしたようだが、
とりあえず私たちの姿を確認して安心したようだった。
そりゃ、あんな現場見たら、血の気が引くわい。


私たちは軽い鞭打ちで済んだ。
軌跡だ。
「シードベルトしてなかったら、
外に放り出されて死んでたかもよ。」
と警察に言われた。
シートベルトをしていた自分たちにバンザイだ。

私たちの前に止まっていたバンのおじさんは、
足を車体に挟まれて、
レスキュー隊によって救出された。
車体から血が流れ出していた。
太ももの骨が折れて、飛び出していたらしい。
自分たちの前の車だったので、
自分のせいじゃないけど、後味悪かったな・・・・・。


私たちはとりあえず救急車に乗って、近くの病院に搬送された。

その後、家族と昼食をとりにうどん屋か何かに入った。
あんな状況でも、人間は腹へるんやな〜。

歌のレッスン

どうも、アネです。


何を血迷ったか・・・
「私はシンガーになるんだ!」
と緩く決意した21歳の私。
横浜のワンルームアパートで、ガンガンに音楽をかけて、
大近所迷惑にも歌の練習をしていたのだが、
(すぐ真下に大家さん住んでるってのに、すげー根性・・・)
さすがに近所の事が気になりだしたのと、
あとは本格的に歌のレッスンをしなくてはと思い、
たまたま高田馬場の駅近くで看板を見かけたので、
そこに生徒登録。

ビルの中の1フロアが教室になっていて、
小さいブースがいくつか並んでいた。
先生は何人かいるらしいが、私は中年女性の先生についた。
一対一のレッスンである。
先生がちゃんとピアノを弾いてくれて、
それに合わせて歌う。
何を練習曲にするかといわれたので、
「カーペンターズの"Yesterday once more"で・・・」
と、今考えたらめちゃくちゃ難しい歌じゃねぇか〜〜と思うのだが、
当時は私はカレン・カーペンターになりたいと本気で思っていた。

なかなか腹から声が出ない。
てか、先生のピアノの音がデカすぎて、
私の声がかき消されてしまう。
「お腹から声だしてね〜〜」
と、その時に発声の仕方を習ったと思うが、
うまくいかない。
「これは・・・・絶対にピアノの音がデカすぎる・・・」
なんていろいろ考えていたら、もうレッスン時間終了。

2回くらい行ったかね〜。
1ヶ月のレッスン料分を消化しきれないまま、
あえなく挫折。

高田馬場は、あれっきり行かなかった。


レッスンの帰り、
JRの高田馬場駅で、人ごみの中、正面からどっかで見た顔が・・・
地元福岡で妹と仲の良かったOさんだ。
そんな人とばったり、
福岡から何百キロも離れた東京の街中で、
しかも情けない歌のレッスン帰りに会うとはね〜。

東京の人は、あたたかい

[アネ]

大手出版社にアルバイトで勤めていたことがあります。
その建物は神田駿河台にあり、控えめに存在していました。
(今はどんな建物になっているか?分かりません)
そこで1年間お世話になりました。

東京に出て、初めて働いたところがそこ。
当時は雑誌の編集者になりたかったので、
とにかく出来ることからから始めようと・・・で、バイト。

入った部署は編集とは全く関係ないところでした。
部署には中年以降の方ばかりで、落ち着いた雰囲気。
当時20歳そこらの私は、もちろん一番若かったわけです。
福岡から1人でやってきたってことで、
人事採用の方も福岡の出身だったってことで、
そんな理由もあって採用されたらしいです。
50人の応募者のうち、3人採用。
その3人に入ったので、今考えると本当にラッキーでした。

まぁしかし、東京の慣れない生活、
人は多いし、満員電車でよく通ってたよ・・・横浜からさ〜。
今なら絶対にそんな生活は無理ですばい。
(田舎デパートの人ごみでさえ疲れるお年頃)

東京の冷たい人々の印象もぬぐえませんでした。
冷たくはないのかも知れないけど、
無関心なのかね〜。
そうじゃないと生きるのが大変なのかね〜とも思うけどね。

しかし、その会社の、その部の人たちというべきですか。
年配者が多かったからかも知れないけど、
すっごいアットホーム賞なとこで!!
引っ越してきたばかりだから、物がいるだろうってんで、
Iさんは千葉から、
バスタオルなどの生活用品を紙袋パンパンに入れて持ってきてくれたり、
その他、安いバイト料で生活している私を、
しょっちゅうレストランに連れていってご馳走してくれたり、
気晴らしのデートにおじちゃんが誘ってくれたり、
(おじちゃんていうか、じーちゃんに近い方でしたが)
まぁ、とにかく、いろ〜んなことでお世話になったんです。

今もあの頃のことをよく思い出しますが。
今まで働いた職場で一番!だったなと思います。
(ちなみに二番は荻窪の居酒屋、今はなき天天ね)

同期の女の子たちともいい友達になって、
編集部のバイトの子たちもなぜか慕ってくれて。
福岡から来たから、他の東京の子とは印象が違ったみたいです。
「福岡の人って、フレンドリー!だよね」
と、ある友達には言われましたが・・・

そんな友達や、お世話になった方々とは、
しばらく連絡とってましたが、
もう何年もご無沙汰です。

みんな、元気かなぁ〜〜。

チケット売り場のオジサン

何年だったですか忘れましたけど、
私、どうしてもテニスの試合を観に行きたくてですね。
当時はヒンギス、グラフ、ダベンポートとかが、
上位で活躍していた時代。
それで、東京の東レ・パンパシフィックテニスが近々あるっていうので、
チケットを買いに、某デパート内のチケット売り場へ行きました。

そこの店にはオジサンがおりました。
「テニスのチケット、ください」
と言うと、なんと・・・・
「売り切れました」
と。



ガックリ



かなりガックリ。



そのガックリ感がオジサンに伝わったんでしょうね。
オジサン、思い出したように、
「あ、ちょっと待っててね」
と言って、どっかに消えて行きました。
そして戻ってきて、こっそり、

「このチケット、あげるから」

と言うのです。
見たら、試合のチケット。


しかもっ、アリーナ席!


オジサン、なんて言ったと思います?

「お金いらないから」


そんなこと、アリーナ???


イモ子の分と二枚くれましたよ・・・・。


どうもそのチケット、
招待チケットらしかったんです。
デパート関係者の招待チケットだったんでしょうね。


もう、ビックリしました。


試合当日、
テニスコートのすぐ横で、
ヒンギスとかグラフ見ました。
かっこよかった〜〜〜♪♪

その後、シングルの決勝戦で、
グラフが負傷したために、
不戦勝でヒンギスが優勝したんです。
決勝戦前にグラフの試合見れて、
本当にラッキーでした。


おじさん、ありがとね〜。
アナタのことは、一生、忘れませんよ〜〜。

大家さん失踪事件

[By.アネ]

今から十数年前。
イモ子と共に杉並区荻窪地帯に住んでいた時のこと。

私たちは某一戸建て家屋の二階部分に住んでいた。
一階には1人暮らしの女性が住んでおり、
野球ファンらしき彼女は、
野球の試合をテレビでやっていると、
「ギャーォ、キャーイーン!」
とアツイ声援を送って大盛り上がりだった・・・。

仮にその貸家の名前を"とんでも荘"としよう。

とんでも荘の大家さんは、1人暮らしのオバサンだった。
家賃はオバサンに直接払いに行っていたので、
毎月一度はオバサンの家に伺うことになっていた。
たまにお菓子を持たせてくれたりして、
(例:フィンガーチョコとかチロルチョコとか、あの懐かしい類)
時には洋服箪笥をくれたりして、
(多分今でもイモ子は持っていると思われる)
お世話になったものだった。

毎朝、7時くらいになると、
雨戸をガーーッと開ける大家さん。
これは毎朝必ず聞く音であった。

ある日、そのガーーッ音が聞こえない。
そして翌日も、ガーーッ音はナシ。
雨戸は一日中閉まったままだった。

(もしや・・・・家の中で倒れているのでは?)

そんな思いが私の中をよぎった。
大家さんはもう60歳は過ぎているような感じだったし、
1人暮らしだし、
倒れていたら誰も気がつかないだろう。
家に勝手に入ることは出来ないし、
それ以前にカギを持っているはずもない。

「警察に電話しよっか?」

ということで、イモ子とすぐさま110番コール。

そしてものの5分もしないうちに、
警察官がチャリンコや徒歩でやってきた。
ワラワラワラワラと、
5〜6人、
東西南北の方向から我々のアパートに向かってきたのである!
↑ここら辺、「水曜スペシャル」のナレーター風でお願いね。

そして捜査開始。
ものものしい緊張感だ。
警察官たちは、垣根を越えて大家さんの家の敷地内に入っていく。
当時は携帯電話ではなく、無線でやり取りである。


「ガサッ、ピー・・・あーこちら現場」



太陽にほえろ、みたいな感じだ。



そしてその捜査中、
警察は大家さんの親戚を調べだし、
電話をかけていた。
その親戚によると、
大家さんは九州の親戚の家を訪ねていたらしかった。

「そーいうことらしいです」
と、警察官たちは再び東西南北に散って消えて行った。

「まぁ良かったじゃん、大家さん無事で・・・」
とイモ子と私は自分たちの部屋に戻って行った。



その日の午後、郵便受けをチェックした私。
中に新聞広告の裏に書かれたメモが入っていたのに気づく。
大家さんからのメモだ。





「九州の親戚の家に行ってきます」






滝汗。